私に興味を持っていただけて、有難く思います。
感謝いたします。
さて、本題に入ります。
私、杉本迅はなぜDJをやるのか。
この問いに対して、単に「音楽が好きだからです」と答えることもできます。
もちろん、それは間違いではありません。
私は音楽が好きです。
音楽を聴くことも、演奏することも、音の構造を考えることも、空間の中で音が人間に与える影響を観察することも好きです。
しかし、それだけでは説明として浅いと考えています。
私にとってDJは、単なる趣味ではありません。
逃げ道でもありません。
現実から離れるための娯楽でもありません。
まして、酒に溺れるための口実でも、女性を口説くための手段でもありません。
私にとって音楽は、現在に集中するための技術です。
また、常識を疑うための手段です。
人間を観察するための実験です。
場を読み、空気を変え、人を導くための訓練です。
そして、私自身が未来ばかりを見すぎてしまう人間だからこそ、音楽が必要なのです。
私は常に未来を考える癖があります。
次に何が起きるか。
この事業はどう伸びるか。
この市場はどこへ向かうか。
この技術は社会にどのような影響を与えるか。
この人はどこで詰まるか。
この組織はどこで崩れるか。
この計画のどこにリスクがあるか。
この意思決定は、半年後、一年後、三年後にどのような結果を生むか。
頭の中では、常に複数の未来が走っています。
私は、目の前の出来事をそのまま見ているようで、実際にはその先にある構造を見ています。
一つの発言を聞けば、その人の価値観、恐怖、欲望、限界、可能性を考えます。
一つの商談をすれば、その顧客の本当の課題、組織の力学、予算の流れ、意思決定者の癖を考えます。
一つの技術を見れば、その技術がどの産業に刺さるか、どこで収益化できるか、どこで規制にぶつかるか、どこで社会実装が止まるかを考えます。
それは経営者としては武器です。
事業家としては必要な能力です。
研究開発や技術経営に関わる人間としても、未来を読む力は重要です。
しかし、人間としてはめんどくさいです。
未来を読み続ける脳は、現在に留まることが苦手です。
常に先へ行こうとします。
危機を探します。
勝ち筋を探します。
人の配置を考えます。
市場の穴を見つけます。
競合の動きを予測します。
制度の歪みを読みます。
社会の矛盾を観察します。
気づけば、身体はここにあるのに、意識だけが何年も先に飛んでいることがあります。
その軋轢で、人と衝突することもありました。
幼い頃、私は死ぬことが怖かったです。
自分がいつか消えること。
意識が終わること。
今見ている世界が、自分にとって二度と戻らないものになること。
親も、家族も、自分自身も、いつかいなくなるということ。
自分が考えているこの感覚も、いつか消えるということ。
その恐怖は、子どもの頃の私にとって非常に大きなものでした。
大人からすれば、子どもらしい不安に見えるかもしれません。
しかし、私にとっては切実な問題でした。
「人間はなぜ生きるのか」
「意識とは何なのか」
「死んだ後に何が残るのか」
「今この瞬間は、なぜ存在しているのか」
そうした問いが、かなり早い段階から自分の中にありました。
私は仏教高校に通っていました。
大乗仏教や禅宗に傾倒した時期もあります。
日蓮宗的な先祖を重んじる教育にも触れ、儒教的な価値観にも影響を受けました。
中学時代には『論語』を読み、後には『論語と算盤』にも強い関心を持ちました。
空海。
密教。
般若心経。
南無妙法蓮華経。
禅。
瞑想。
それらは私にとって、単なる宗教知識ではありませんでした。
人間がどう生きるべきか。
何処へ向かうべきか。
どうすれば、死などの不確実性の問題と向き合えるのか。
それを考えるための材料でした。
その中で出会った言葉の一つに、禅の「即今 当処 自己」があります。
今。
ここ。
自分。
遠い未来でもなく、過去の後悔でもなく、今この場所にいる自分に立ち返るということです。
これは非常に強い言葉です。
しかし、私にとって「今に集中する」というのは、簡単なことではありませんでした。
頭は常に先へ行きます。
未来を計算します。
危機を探します。
勝ち筋を読みます。
人の配置を考えます。
事業の構造を組み替えます。
社会の矛盾を見ます。
技術の未来を考えます。
人間の進化の方向まで考えます。
つまり、私の意識は、放っておくと現在から離れます。
そんな私に、
「今ここにいる」
という感覚を身体で教えてくれたのが音楽でした。
音楽は、今鳴っています。
音楽は、未来を説明しません。
音楽は、過去を弁解しません。
音楽は、今鳴っています。
キックが鳴ります。
ベースが沈みます。
ハイハットが刻みます。
シンセが空間を裂きます。
パーカッションが身体の奥に入ります。
フロアの身体が反応します。
誰かが顔を上げます。
誰かが目を閉じます。
誰かが身体を揺らします。
誰かが一瞬だけ、日常から離れます。
その瞬間、私はようやく「今」に戻ります。
私にとって音楽は娯楽ではありません。
精神の補助輪でもありません。
単なる気分転換でもありません。
現在に帰還するための装置です。
私はよく、音楽がなければ仕事に支障をきたすと言います。
これは比喩ではありません。
私から音楽を抜けば、思考の熱が逃げなくなります。
未来を読み続ける脳が冷却されなくなります。
構造ばかりを見て、人間の体温を忘れます。
勝ち筋ばかりを見て、今ここにいる人の揺らぎを見落とします。
音楽は、私の脳を洗います。
ハウス、テクノ、トランスは、思考の詰まりを流します。
反復するキックは、呼吸を整えます。
沈むベースは、身体を地面に戻します。
上物の揺らぎは、思考の熱を逃がします。
音の反復は、私にとって禅に近いものです。
音楽は、私に「即今 当処 自己」を思い出させます。
今。
ここ。
自分。
私は、音楽がなければいけない身体です。
それは弱さではありません。
むしろ、自分の性質を理解したうえで、自分を調整するための合理的な方法です。
私は小学4年生の頃からビートボックスをしていました。
中学2年生でギターを始め、作曲もしました。
高校を中退した後は、DTMにも触れました。
妹はピアノが上手く、家の中にも音楽がありました。
振り返れば、音楽は10年以上、私の近くにありました。
急に始めたわけではありません。
流行りに乗ったわけでもありません。
SNS映えのために始めたわけでもありません。
自分の身体に残っているものを、今の環境に合わせて再び取り出しているだけです。
得意なこと。
経験があること。
継続してきたこと。
身体に刻まれていること。
それを市場に出す。
これは極めて合理的な判断です。
私にとって音楽家とは、世界の見方を変えた人間です。
私にとって神のような存在は、ジョン・レノンであり、ボブ・ディランであり、エリック・サティであり、ショパンであり、ドビュッシーであり、フランキー・ナックルズであり、ホアン・アトキンスです。
彼らは、単に美しい音を作った人間ではありません。
世界の見方を変えた人間です。
ジョン・レノンは、愛と反戦を音楽にしました。
ボブ・ディランは、言葉を武器にして時代を撃ちました。
エリック・サティは、音楽の格式を静かにずらしました。
ショパンは、個人の孤独と美を旋律にしました。
ドビュッシーは、輪郭の曖昧さを芸術にしました。
フランキー・ナックルズは、ハウスミュージックで人々の居場所を作りました。
ホアン・アトキンスは、デトロイト・テクノで機械と魂を接続しました。
彼らは全員、現実をそのまま受け入れなかった人間です。
正しさを疑い、既存の秩序をずらし、新しい感じ方を提示しました。
音楽には、カウンターの役割があります。
社会に対する批判的思考。
常識への違和感。
正しさへの疑念。
現状の再定義。
「それは本当に正しいのか」
「人間は本当にそう生きるべきなのか」
「この空気に従う必要があるのか」
「この秩序は誰にとって都合がいいのか」
「この評価基準は、本当に人間を豊かにしているのか」
「この社会のルールは、誰のために存在しているのか」
音楽は、それを言葉より先に身体へ突きつけます。
クラブは、単なる遊び場ではありません。
私は、クラブを単なる遊び場だとは思っていません。
女性を口説く場所だとも思っていません。
酒に溺れる場所だとも、欲を発散するだけの場所だとも思っていません。
もちろん、そう使う人間もいます。
そう認識する人間もいます。
それは否定しません。
場は、使う人間の精神性によって意味が変わります。
不純な心で見れば、クラブは不純な場所に見えるでしょう。
表面的な快楽だけを求めれば、クラブはただの消費空間に見えるでしょう。
しかし、私にとってクラブは違います。
クラブは、場の空気を読み、人間の反応を観察し、音によって空間を再設計する場所です。
DJは、ただ曲を流す人間ではありません。
場の温度を読みます。
人の集中を読みます。
身体の揺れを読みます。
退屈を読みます。
興奮を読みます。
期待を読みます。
疲労を読みます。
違和感を読みます。
熱が上がる瞬間を読みます。
熱が落ちる瞬間を読みます。
人が一体になる瞬間を読みます。
人が離れていく瞬間を読みます。
そして、その瞬間に必要な音を置きます。
これは、経営に近いです。
市場を読みます。
顧客を読みます。
組織を読みます。
人の感情を読みます。
資金の流れを読みます。
技術の成熟度を読みます。
社会の空気を読みます。
流れを読み、次の一手を打ちます。
DJも経営も、同じです。
場を読み、構造を読み、タイミングを読み、最適な一手を置く行為です。
私は空気を読むのが得意ではありません。
無神経なところがあります。
普通の人なら自然に気づくことに、気づけないことがあります。
人の感情の細かな変化を、最初から綺麗に理解できる人間ではありません。
言葉が強くなりすぎることもあります。
結論を急ぐこともあります。
合理性を優先しすぎて、相手の心の速度を見落とすこともあります。
これは事実です。
弱点です。
誤魔化すつもりはありません。
だからこそ、訓練する必要があります。
DJは私にとって、感性の鍛錬です。
人間を知るための実験です。
未来ばかりを考える私が、今この場に戻るための修行です。
人間は、言葉だけでは分かりません。
アンケートだけでも分かりません。
会議室だけでも分かりません。
資料だけでも分かりません。
人間は、音に対してどう反応するか。
空間に対してどう緩むか。
照明に対してどう表情を変えるか。
低音に対してどう身体を預けるか。
知らない人が横にいるときに、どこまで自分を開くか。
退屈したときに、どのような顔をするか。
期待したときに、どのような目になるか。
そういうところに、人間の本質が出ます。
私がDJをやる理由の一つは、ここにあります。
私は人間を知りたいのです。
事業の対象としてではなく、マーケットの数字としてではなく、生身の存在として人間を知りたいのです。
量子コンピュータ業界で出会った、湘南のDJ。
私がDJを始めるうえで、大きなきっかけになった人物がいます。
量子コンピュータ業界で出会った、ハーバード大学卒の湘南のDJです。
彼は、単なる音楽好きではありませんでした。
知性がありました。
身体性がありました。
社会を見る目がありました。
音楽を思想として捉えていました。
量子コンピュータという極めて抽象度の高い領域に関わりながら、同時に湘南という土地の空気をまとい、音楽を通じて人間の深い部分に触れようとしている人でした。
彼は、DJをこう表現しました。
「DJは、現代のシャーマンである。」
この言葉は、私の中に強く残りました。
シャーマンとは、単なる宗教的な存在ではありません。
古い共同体において、シャーマンは人々の不安を受け止め、見えないものと見えるものをつなぎ、混乱した集団に方向を与える存在でした。
病。
死。
自然。
恐怖。
共同体の危機。
人間だけでは処理しきれないものに対して、象徴や儀式や音や身体を通じて意味を与える存在でした。
現代社会では、共同体が弱くなっています。
人は孤立しています。
情報は過剰です。
不安は増えています。
未来は読みにくくなっています。
社会のルールは複雑化し、個人は何を信じればよいか分かりにくくなっています。
そのような時代において、DJは単なる選曲者ではありません。
人の意識を切り替える存在です。
日常から非日常へ連れていく存在です。
散らばった人々の身体を、同じリズムの中に入れる存在です。
孤独な個人を、一時的に共同体へ戻す存在です。
言葉では届かない場所に、音で触れる存在です。
そう考えたとき、DJは確かに「現代のシャーマン」だと感じました。
そして、その言葉を聞いたとき、私はDJという行為を、単なる音楽活動として見ることができなくなりました。
音を選ぶこと。
場を読むこと。
人の意識を変えること。
孤独な個人を、一時的に共同体へ戻すこと。
言葉では届かない場所に、音で触れること。
それは、現代における一つの導きなのだと感じました。
誰もが果たすべき使命がある。
私はそう考えています。
人は、ただ消費するためだけに生まれてきたのではありません。
与えられたルールの中で、無難に一生を終えるためだけに生まれてきたのでもありません。
その人にしか見えない景色があります。
その人にしか感じられない違和感があります。
その人にしか渡せない言葉があります。
その人にしか鳴らせない音があります。
私にとってDJとは、自分の使命を音で表現する行為でもあります。
私は、人を導く存在でありたいです。
私はもともと「人を導く」ということに強い関心があります。
経営者とは、人を導く存在です。
リーダーとは、人を導く存在です。
研究者も、本質的には未知へ向かう人を導く存在です。
思想家も、社会に別の見方を示す存在です。
アーティストも、人間の感覚の方向を変える存在です。
私は、自分が単なる技術者で終わるつもりはありません。
単なる経営者で終わるつもりもありません。
単なる肩書きの人間で終わるつもりもありません。
私は、生き方そのものを提示する人間でありたいです。
それは、偉そうに人を従わせるという意味ではありません。
依存関係を作りたいわけでもありません。
自分の価値観を一方的に押し付けたいわけでもありません。
そうではなく、自分の生き方そのものによって、誰かに方向性を示せる人間でありたいのです。
「こういう生き方もある」
「技術と芸術は分断しなくていい」
「経営と音楽は矛盾しない」
「合理性と感性は両立できる」
「未来を作る人間こそ、現在に戻る技術を持つべきだ」
「社会の常識に従うだけが正解ではない」
「自分の身体に刻まれたものを、事業や表現に変えていい」
そう示せる人間でありたいのです。
私は、リーダーとは単に指示を出す人間ではないと考えています。
リーダーとは、場の空気を変える人間です。
リーダーとは、集団の意識を変える人間です。
リーダーとは、混乱の中に方向を示す人間です。
リーダーとは、恐怖や不安を受け止め、それを前進する力に変える人間です。
この意味で、DJとリーダーは近いです。
DJは、フロアの不安を受け止めます。
退屈を察知します。
疲労を察知します。
熱量を読みます。
音によって流れを変えます。
一人ひとりの身体を、場全体のうねりへ接続します。
リーダーも同じです。
組織の不安を受け止めます。
停滞を察知します。
不満を察知します。
熱量を読みます。
言葉と意思決定によって流れを変えます。
一人ひとりの能力を、組織全体の成果へ接続します。
音で人を導くのがDJであるなら、意思決定で人を導くのが経営者です。
どちらも、場を読む力が問われます。
どちらも、タイミングが問われます。
どちらも、勇気が問われます。
どちらも、独りよがりでは成立しません。
だから、DJは私にとって経営の訓練でもあります。
音楽の歴史は、技術経営そのものです。
私は、技術経営の世界にいます。
量子コンピュータ。
量子リザバー。
物理リザバー。
AI。
データ分析。
事業開発。
そうした領域に関わってきました。
しかし、技術経営とは、単に技術を理解することではありません。
技術が、人間の生活をどう変えるか。
技術が、人間の感情をどう動かすか。
技術が、人間の行動様式をどう再設計するか。
技術が、産業の構造をどう変えるか。
そこまで見なければ、技術経営とは言えません。
その意味で、音楽の歴史は、技術経営そのものです。
エジソンの蓄音機は、音をその場限りのものではなく、記録し、再生できるものに変えました。
それまで音楽は、その場で鳴り、その場で消えるものでした。
しかし、蓄音機によって、音は時間を超えるようになりました。
演奏者が目の前にいなくても、音楽が届く。
一度消えたはずの声が、もう一度鳴る。
人間の記憶にしか残らなかった音が、機械によって保存される。
これは、単なる発明ではありません。
人間の感覚と時間の関係を変えた出来事です。
SONYのウォークマンは、音楽を部屋から外へ連れ出しました。
それまで音楽は、家、車、ライブ会場、店、ラジオの前にあるものでした。
しかし、ウォークマンによって、音楽は個人の身体に接続されました。
街を歩きながら聴く。
電車の中で聴く。
海辺で聴く。
一人で聴く。
自分だけの世界を持ち歩く。
音楽は、場所の制約から解放されました。
これは、単なる携帯音楽プレイヤーではありません。
人間の孤独と自由の形を変えた装置です。
AppleのiPodとiTunesは、音楽を所有し、選び、持ち歩き、買う体験を再設計しました。
「どのCDを持っていくか」ではなく、
「どの曲を、どの順番で、自分の人生に配置するか」
へ変わりました。
アルバム単位ではなく、曲単位で選ぶ。
店に行くのではなく、画面上で探す。
棚に並べるのではなく、ライブラリとして持つ。
ポケットの中に、自分の音楽宇宙を入れる。
これは、デバイスの勝利だけではありません。
ハードウェア、ソフトウェア、ストア、決済、著作権、ユーザー体験を統合した、技術経営の勝利です。
Spotifyは、さらに音楽を所有からアクセスへ変えました。
音楽を買うのではなく、接続する。
保存するのではなく、流れの中で出会う。
自分で探すだけではなく、推薦される。
個人の履歴、感情、場面、時間帯に応じて、音楽が現れる。
音楽は、商品から体験へ変わりました。
そして、体験から関係性へ変わりました。
つまり、音楽の歴史とは、ただの芸術史ではありません。
蓄音機は、音を時間から解放しました。
ウォークマンは、音を場所から解放しました。
iPodとiTunesは、音を所有と流通の制約から解放しました。
Spotifyは、音をアクセスと推薦のネットワークへ接続しました。
ここまで見れば、音楽は明らかに技術経営の中心にあります。
音楽とは、感性の話であると同時に、メディアの話です。
メディアの話であると同時に、デバイスの話です。
デバイスの話であると同時に、流通の話です。
流通の話であると同時に、権利の話です。
権利の話であると同時に、ビジネスモデルの話です。
ビジネスモデルの話であると同時に、人間の生活様式の話です。
だから私は、かなり極端にこう言ってもいいと考えています。
音楽の歴史をわかっていないということは、技術経営をわかっていないということと同義です。
もちろん、これは極論です。
しかし、極論には真実があります。
技術経営とは、技術そのものを見ることではありません。
技術によって、人間の欲望、時間、空間、身体、感情、産業構造がどう変わるかを見ることです。
そのすべてが、音楽の歴史には詰まっています。
だから、私がDJをやることは、技術経営から外れる行為ではありません。
むしろ、技術経営のど真ん中にあります。
私は、音楽を通じて人間の反応を見ています。
音楽を通じて場の変化を見ています。
音楽を通じて、身体と技術と社会の接続を見ています。
そして、その先にある大きな方向性を見ています。
人類の意思を、宇宙ネットワークへ接続する。
これは、私の中にある大きな方向性です。
単なる壮大な比喩ではありません。
エジソンが音を記録可能にしたように。
SONYが音を身体と移動に接続したように。
Appleが音楽体験をデバイスと流通に統合したように。
Spotifyが音楽をネットワーク化したように。
私は、人間の意思、創造性、問い、違和感、使命を、より大きな文明の流れへ接続したいのです。
人間の意思。
知性。
感情。
祈り。
創造性。
問い。
使命。
それらを、地球上の狭い常識や制度や評価基準の中に閉じ込めるのではなく、より大きな文明の流れへ接続していく。
私は、技術によってそれを実現したいです。
事業によってそれを実現したいです。
思想によってそれを実現したいです。
そして、音楽によってもそれを実現したいです。
フロアで人々が同じリズムに入る瞬間。
知らない人同士の身体が、同じ低音に反応する瞬間。
言葉ではなく、音によって意識が接続される瞬間。
そこには、小さな宇宙ネットワークがあります。
人と人。
身体と音。
意識と空間。
個人と共同体。
現在と未来。
それらが一瞬だけ、接続されるのです。
私は、その瞬間を作りたいです。
音楽の歴史は、制約を外してきた歴史です。
その場でしか聴けなかった音を、蓄音機が時間から解放しました。
部屋でしか聴けなかった音を、ウォークマンが場所から解放しました。
CDや店舗に縛られていた音を、iPodとiTunesが流通から解放しました。
所有しなければ聴けなかった音を、Spotifyがアクセスへ解放しました。
つまり、音楽産業の進化とは、常に制約の排除でした。
しかし、制約を外すだけでは足りません。
制約を外した先に、新しい秩序を作らなければいけません。
新しい体験を作らなければいけません。
新しい文化を作らなければいけません。
新しい市場を作らなければいけません。
制約の排除、文明の創造。
これは、私の事業観であり、人生観です。
壊すだけでは足りません。
批判するだけでは足りません。
自由を叫ぶだけでも足りません。
制約を外した先に、人がより遠くへ行ける構造を作る。
人がより深く感じられる場を作る。
人がより強く生きられる方向を作る。
それが文明の創造です。
音楽も同じです。
ただ日常を壊すだけではありません。
ただ騒ぐだけではありません。
ただ酔うだけではありません。
音によって、人の意識を変える。
場の秩序を作る。
身体を開く。
孤独を緩める。
感情を動かす。
一晩の中に、小さな文明を作る。
DJは、その文明の設計者です。
技術は、人間に接続されなければ価値になりません。
この世界では、未来を語る人間が多いです。
技術の可能性を語る人間は多いです。
市場規模を語る人間も多いです。
社会実装を語る人間も多いです。
しかし、本当に大切なのは、技術が人間の身体感覚や生活感覚に接続されることです。
どれほど高度な技術でも、人間が使えなければ意味がありません。
どれほど美しい理論でも、社会に接続されなければ価値になりません。
どれほど大きなビジョンでも、人間の感情を動かせなければ、人はついてきません。
技術には冷たさがあります。
数字には冷たさがあります。
合理性には冷たさがあります。
それ自体は悪いことではありません。
むしろ、私は合理性を重視します。
数字も見ます。
構造も見ます。
勝ち筋も見ます。
しかし、それだけでは人間は動きません。
人間は、意味で動きます。
物語で動きます。
体温で動きます。
美しさで動きます。
違和感で動きます。
衝動で動きます。
音で動きます。
私はそこを理解したいのです。
だからDJをやります。
DJは、音を使って人間が動く瞬間を観察できる行為です。
これは、マーケティングよりも直接的です。
営業よりも原始的です。
経営よりも身体的です。
人間が理屈より先に反応する瞬間を見ることができます。
この経験は、事業にも返ってきます。
人を惹きつける力。
場を温める力。
空気を読む力。
退屈を察知する力。
期待を裏切らず、しかし予想だけに迎合しない力。
流れを壊さず、必要なタイミングで転換する力。
これらは、経営にも必要です。
経営もまた、選曲に近いです。
どのタイミングで新規事業を出すか。
どの顧客に先に当てるか。
どの人材をどの場所に置くか。
どの事業を残し、どの事業を切るか。
どこで攻め、どこで守るか。
どこで沈め、どこで上げるか。
どこで静かに待ち、どこで一気に展開するか。
これは、まさにDJの感覚です。
場を壊してはいけません。
しかし、予定調和だけでもいけません。
人に合わせるだけでは退屈になります。
自分を押し付けるだけでは独りよがりになります。
必要なのは、場と自分の間にある緊張を読み切ることです。
私はその感覚を、音楽を通じて鍛えたいのです。
そして、現実的な理由もあります。
私は結婚しました。
家庭を持つということは、責任が増えるということです。
責任が増えるなら、収入の柱も増やす必要があります。
これは極めて合理的な判断です。
綺麗事だけで家庭は守れません。
思想だけで生活はできません。
愛だけで請求書は払えません。
責任には、収益が必要です。
収益には、価値提供が必要です。
私は、自分が持っている資産を見直しました。
技術があります。
経営があります。
事業開発があります。
言語化があります。
構造化があります。
そして、音楽があります。
その中で、音楽は長年自分の近くにあったにもかかわらず、まだ十分に市場へ出していなかった領域でした。
であれば、出すべきです。
得意なこと。
経験があること。
継続してきたこと。
身体に残っていること。
それを価値に変える。
これは、逃げではありません。
資産の再配置です。
私は、音楽を捨ててまで経営者を演じるつもりはありません。
私はADHDと診断された背景があります。
注意が散りやすいです。
誤字脱字も多いです。
仕事で細かなミスもします。
これは事実であり、弱点です。
ただし、私は点と点をつなぐことが得意です。
経済。
物理。
設計。
事業戦略。
ロードマップ。
人材配置。
別々に見えるものを、一つの構造として捉えることができます。
大枠の方向性を掴むことができます。
足りないピースを見つけることができます。
人の適材適所を考えることができます。
必要であれば、自分自身もパズルの一部として形を変えることができます。
うまくいくなら、役割にこだわりません。
目的に対して、もっとも合理的な形を取ります。
しかし、その脳は常に動き続けます。
未来を読みます。
構造を読みます。
危機を読みます。
勝ち筋を読みます。
人を読みます。
世界を読みます。
だから、音楽が必要なのです。
音楽は、私の過剰に動く脳に身体を取り戻させます。
音楽は、抽象に飛びすぎる意識を地面に戻します。
音楽は、未来に飛びすぎる思考を現在に戻します。
音楽は、合理性に偏りすぎる私に、人間の揺らぎを思い出させます。
私は、音楽があるからまた考えられます。
音楽があるからまた作れます。
音楽があるからまた人の前に立てます。
音楽があるからまた未来を構想できます。
私から音楽を抜けば、仕事に支障をきたします。
これは甘えではありません。
自分の機能条件を理解しているだけです。
優れた機械にも冷却機構が必要なように、人間にも自分を整える仕組みが必要です。
私にとって、それが音楽です。
だから、投資家や取締役会が、私がDJをやることを許さないというのであれば、私は最終的には役員を辞任しても構わないと考えています。
これは感情的な反発ではありません。
優先順位の問題です。
肩書きよりも深いところに、音楽があります。
職業よりも前に、音楽があります。
合理性よりもさらに深いところに、音楽があります。
私は、音楽を捨ててまで経営者を演じるつもりはありません。
むしろ、音楽を持ったまま経営者でありたいのです。
経営者は、無機質な存在である必要はありません。
技術者は、感性を捨てる必要はありません。
研究者は、身体性を失う必要はありません。
リーダーは、遊びを知らない人間である必要はありません。
むしろ、これからの時代に必要なのは、技術と芸術、合理性と感性、未来と現在を接続できる人間です。
私は、そこを目指しています。
だから、私はDJをやります。
音楽は、私に現在を教えます。
音楽は、私に人間を教えます。
音楽は、私に社会を疑う力を与えます。
音楽は、私に未来を作るための余白を与えます。
私は音でフロアを読みます。
事業で市場を読みます。
人で組織を読みます。
批判精神で社会を読みます。
DJは、私にとって単なる音楽活動ではありません。
生き方の実験です。
人間理解の訓練です。
リーダーシップの修行です。
現在に戻るための技術です。
常識を疑い、新しい方向を示すための表現です。
私は、音楽によって現在に戻ります。
音楽によって人間を知ります。
音楽によって社会を疑います。
音楽によって自分を整えます。
音楽によって場を読みます。
音楽によって人を導く感覚を鍛えます。
そして、その経験を経営に戻します。
事業に戻します。
研究に戻します。
言葉に戻します。
生き方に戻します。
私は、技術と芸術を分けたくありません。
経営と音楽を分けたくありません。
合理性と感性を分けたくありません。
未来と現在を分けたくありません。
未来を作るためには、現在に戻る必要があります。
現在を感じられない人間に、未来は作れません。
人間を感じられない人間に、社会は作れません。
音を感じられない人間に、場は作れません。
だから、私はDJをやります。
これは、趣味ではありません。
余興でもありません。
逃げでもありません。
現在に戻るための技術です。
人間を知るための実験です。
社会を疑うための手段です。
リーダーとしての修行です。
自分の使命を果たすための表現です。
私は、音でフロアを読みます。
事業で市場を読みます。
人で組織を読みます。
批判精神で社会を読みます。
未来を作るために、現在へ戻ります。
人間を導くために、人間を感じます。
文明を作るために、制約を疑います。
そして、自分の人生で、未来の方向を示します。
だから、私はDJをやるのです。
